長めのやつ

Twitterに対して長めの日常の記録とか思い出したこととか

最近の体調

妊娠12週になった。妊娠12週は一般的につわりが消失する時期とされており、確かに先週までと体調が違う。今思えばあれはつわりだったんだなと思うものがいくつかあるので記録しておく。

  • 猛烈なだるさ、眠気、横にならせてほしい

眠くて眠くて、21時台に眠りについて7時頃に目が覚めても、目が覚めた瞬間から眠かった。眠すぎて仕事にならないということはなかったが、休憩時間があれば寝たかった。日本にもシエスタ導入してくれと思った。寝ないまでも、常に体がだるくて、暇があれば横になりたい感じ。家帰って夕飯の支度をしようと思ってもだるすぎてベッドに横たわっていることもしばしば。ちょっと気持ち悪いような気もするがだるいのがひどいせいでそうなっている様なかんじ、純粋な吐き気ではなかった。体を動かすのも、軽い二日酔いと同じ様な感じで、動けなくはないけどできれば動きたくない、みたいな感じ。

ある日突然、目が覚めたら「しっかり寝た!」という熟睡感があり、あれ?と思っているうちに猛烈な眠気はどこかに行ってしまった。眠かった時期の習慣のまま21時台にベッドに入ると朝5時に目が覚めてしまう。久々に体を動かせるのが嬉しくてリングフィットアドベンチャーをやったらバキバキに筋肉痛になった。

 

  • 空腹感

そういえば妊娠に気づいてすぐの7〜8週の頃、育ち盛りの高校生か?というような食欲があった。夜中に空腹で目が覚め、いてもたってもいられず深夜の台所で軽食を作って食べていた…。もともと夕飯は晩酌+炭水化物抜きの食事をしていた。妊娠に気づいてから晩酌はやめたが食事はそれまで同様の炭水化物抜きにしていて、それだとどうも眠れないほどお腹が空く。夕飯に軽めに米をつけるようにしても結局夜中に目がさめるので、夕飯に思う存分米を食べる様にしてからはそういうことは減っていった。血糖値が上がらないとしっかり食べたはずなのに満腹感が出なかったり、普段よりも脳みそがダイレクトに血糖を感じているように思えた。比較的食べづわり寄りだったみたいで、起き抜けに運転していたら空腹で気持ち悪くなって急遽コンビニで甘いジュースを買ったりしていた。

 

仕事柄不規則な勤務で、職場に泊まったりすることもしばしばなので、つわりで調子悪かったらできないかも…と心配していたが意外と平気だった。昨年度同僚が一人産休・育休を取って勤務する人間の頭数が少なかった時、結構泊まりの勤務回数が多くてしんどかったので、体調が悪くない限りはなるべく通常通りに勤務したいと思って、今のところ普段通り泊まりの仕事もやっている。

最近父親の夢を見る

最近実家の夢を見る頻度が増えた。実家のかつて現実にあったシーンではなくて、実家的な場所で、父親と母親と私がいて、私が父親のことを好いていないことが明らかになって、父親はショックを受け、私はそうだよ気づいていなかったの?!あんなことしておいて被害者面だなんて笑わせてくれるねという内容を言って追い打ちをかける、というような内容。あくまで私の妄想の中だけの内容なのだが、この夢を見るとすごくすっきりした気持ちで目が覚める。

この夢を見るようになったきっかけは、水谷さるころさんの漫画だ。夫が些細なことで自分の感情をコントロールできなくなり、キレたり不機嫌になったり息子に手が出たりという状態で、カウンセリングを通じて自覚を促して自分を見つめなおすというような内容。それを読んで私は自分の父親を思い出したのだ。ちょっとしたこと(自分が理解できない、自分の善意が伝わらない等)で突然怒り出して喚き散らしたり物に当たったりする私の父親。

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水谷さんの配偶者と同様に、私の父親も「悪い人」ではないのだ。私の父親は家事に協力的でこそなかったが、私たち子供のことを非常に案じてくれ、特に教育面においては熱心で、父親の指導や助言があってこそ私は受験で困らずにここまでやってきたと思う。しかし一方で家庭内に恐怖心と暴力による支配は確かにあり、私はどうしても父親を慕うという気持ちにはなれない。

私も妹も大学進学を機に実家を離れた。母からの話では、最近はカッとなることは非常に少なくなったらしい。実家にいたころからうすうす感じていたが、父親が怒り狂っていた原因は子供の存在ではないだろうか。予定外に体調を崩したり夜中に泣いたり、予想外の動きをして自ら危険に飛び込み、丁寧に説明しても理解をしない、アンコントロールな存在、子供。母親に昔「なぜこのようなカッとなって暴力を振るう男と結婚したのか?」と尋ねたことがある。母親は「結婚するまでそう思わなかったんだよね」と言っていた。両親はデキ婚らしいので、つまり子供ができる前まではそうではなかったのだろう。

絶対に自分の育ったような家庭は作らないぞと思って、自分のパートナーにはキレない、暴力を振るわない男を選んだ。たまに喧嘩をした際にはカッとなって声を荒げた自分に父親の片鱗をみつけてゾッとした。そういう血が流れているのかと思ったこともあったけど、今のところさほど言い争うこともなく過ごしている。怒って解決することはこの世に少ないし、怒らなくても言葉を尽くして少し待てば大体の内容は伝わる。

しかし、もしかして、子供ができたら、怒って伝えることが最短の解決になることもあるのだろうか?言葉を尽くして説明しても伝わらない相手には怒るしかないのだろうか?もしかしたら危険な行動をやめさせるには激しく怒ってみせるしかないこともあるのかもしれない。たしかに父親が激しい口調で注意したことで私は何かを口に咥えて歩いたりしなくなって、それは安全につながったと思う。

とはいえ、父親のやり方が正しかったとは思えない。数学を理解しなかったからといって、目の前で鉛筆を折ったりする必要があったか?そんなわけないと思う。なぜ鉛筆を折ったり机を大きな音を出して叩いて怖がらせる必要があるのか、当時父親に聞いたことがある(もちろん私は冷静な状態ではなく泣きながら、そういう脅すようなことはやめてくれ、という文脈で)。父親は「怒りに任せてそうしているわけではない。教育上そのほうが効果的だと思うから」みたいなことを言っていた。本気で言っているのか?当時も今もそういう感想しか出てこない。

机上の勉学において暴力を見せつけることは、私からは父がイライラを発散するためにやったことにしか見えなかったのだが、なぜもっともらしい理由をつけてそうではないと言うのだろうか。
イライラの発散に暴力を使うのはさすがにまずいと思って嘘をついているのかと当初は思ったが、そういうわけではなく、どうやら本気で言っているみたいだった。
もしかして自分がイライラをコントロールできないこと自体を自覚できていないのかもしれない。暴力に至るプロセスをリアルタイムには自覚できないので、後付けで理由を考えた結果、もっともらしい理由がついてしまうのかもしれない。
あるいは、本当に「冷静に判断した結果、教育上の効果を狙って、暴力を見せつけた」のかもしれない。それならば和解の道はない。もしそうであれば、彼は冷静に判断した結果、子供に永遠に嫌われる道を自分で選んだわけだ。いや、自分が嫌われることと引き換えに子供の学力を取ってくれたのだろうか?そのような覚悟であれば称賛するしかないが、おそらくそんなことはないだろう。いずれにせよそんなことは暴力を見せつける正当な理由ではないと私は思う。

 

夢の中で私が父親に面と向かって「あなたのことは永遠に好きになれない」ということには一体どのような意味があるのだろうか。ちなみに現実世界でそういうことを言ったことはない。そう言うとすっきりするというということは、言うべきではないという意識がどこかにあるのだろうか。まあ私が言って去った後の実家の平和を考えると確かに言うべきではない。言って思い知らせてやりたいみたいな気持ちもどこかにある気がする。お前は子育ては成功しすべて円満に終了したと思っているかもしれないがとんでもない、こちらには禍根が残っているぞ、と。父親に過去のことを悔いてほしいという気持ちはあるが、まあ言ったからといって現状(今は落ち着いているらしいので)なにか良くなるという類のものではないから、夢で言って私がスッキリするくらいがちょうどいいのかもしれない。

無茶な弾丸帰省をして永遠に続く二日酔いかと思ったら違った

11月末に、思い立って週末1泊2日で札幌に帰ることにした。

別に地元に何の急用があるわけではない。週末何して過ごそうか?と配偶者と話しているときに、次の週末は土曜の朝から日曜の夜まで完全な休みで、そういうシフトは久しぶりだと気付いてしまったのだ。私の仕事の都合上、職場に泊まる当番が週に1~2回ある。例えば金曜の夜に職場に泊まると、土曜の朝8時くらいに職場から解放されることになるので、土日が休みとはいえ土曜朝の飛行機に乗ることはかなわない。もちろん土日に当番が入っていることもしばしば。

だから土曜の朝から日曜の夜まで完全に休みというのは結構レアで、次の休みはそれだと気づいてしまった。せっかくなので土日が完全に休みだからこそできることをしたい。土曜早朝から出かけるような何か。

そうだ地元・札幌に帰ろう。札幌に帰るのは1年ぶりだった。前回は配偶者と結婚のあいさつに帰ったので、今度は一人で友人とおしゃべりしたり飲み食いしたい。

水曜日の夕飯時に上記スケジュールを思いついて、そこから飛行機を予約したり友人たちにアポを取ったりして、結果土曜日の朝5時半に家を出て空港に向かい、6件のアポを経て日曜日24時過ぎに帰宅という過密スケジュールを組んでしまった。車を出してくれた配偶者、急な連絡にもかかわらず応じてくれた友人に感謝。

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通勤のお伴、ゆる言語学ラジオ

動画を見るのが苦手で、映画もアニメもYouTubeもあまり見ないしPodcastも聞かない。嫌いなわけじゃないんだけど、時間の移ろいが作品の中で固定されているものをが苦手な様に思う。自分のペースとは関係なく進んでいくというか。もしかすると単に集中力がないだけなのかもしれない。あとはどちらかというと原作厨のきらいがあるので、漫画や小説を元にした映像作品が好きじゃないという部分もあるかもしれない。

そんな私でもそういう時間が自動的に進んでいくコンテンツがありがたい時があって、それが通勤の運転中である。いまの家から勤め先まで約1時間かかり、そのお伴としてのコンテンツ。あんまり難しい内容だと運転しながらは聞けないので、耳で聞いて理解できる程度のものが望ましい。あとは運転中に画面を注視するわけにもいかないので、映像主体ではなくて、音声でしっかり喋ってくれている必要がある。

そんな条件にちょうど合うので好んで視聴している番組があって、「ゆる言語学ラジオ」という。

ラジオという名前のとおりどちらかというとPodcast寄りなのだが、たまに漢字とか英単語の綴りの話が出てくるので、字幕や注釈が出てくるYouTubeでの視聴の方がオススメ。昨年ちょっと流行って、Podcast Awardを受賞している。内容としては、ゆるーく言語学について解説していくという内容で、言語学好きの一般人が解説、言語学ど素人が聞き手として話が進んでいく。あくまで「ゆる」なので、雑学的な軽い気持ちで楽しく聴ける。でも中の人がアカデミックな内容リスペクトなので難しい言葉もでてくる回もあり、それはそれで知的好奇心が満たされ楽しく聴ける。

 

聴き始めたきっかけは出演者の片方が知り合いでツイッターをフォローしていたためだ。知り合いというか、相手は私のことを覚えていないと思う。高校でクラスが同じだっただけの特に接点のなかった元同級生なのだ。彼は多分ちょっとオタクっぽい感じの男子たちのグループに属していて、そのグループの中では面白い人と評価されているみたいだったけど、クラス内で目立つタイプではなかったと記憶している。そういえば20歳になったときの高校の同窓会の二次会でクラスごとに飲みに行った時に、同じテーブルに座った気がする。その元同級生は「えっ慶応ボーイなの似合わな!」ってちょっとイジられていたのを覚えている。私の卒業クラスは公共精神に欠けた陽キャが仕切っていたので、クラス全員が入っているLINEグループ的なものは存在しておらず、その後は同窓会は開催されていない。

その彼は今はインターネット芸人というかコンテンツクリエイターみたいな仕事をしていて、なかなか周囲にいないタイプなので観察がてらフォローしていた。それで番組を始めたことを知り、とはいえ彼の面白いという感性と私が好きなものとはちょっと違うような気がしていてしばらく様子を見ていた。しばらくしても番組は続いているようだったし言語学というのもなかなか面白そうだしで番組を視聴し始めたら、予想をはるかに上回る面白さだった!

まず言語学という身近なことをいくらでも例に挙げられる題材がよい。誰だって生きてるだけで言語(なんらかのコミュニケーション手段)は使用しているし、自分や周囲の子供なんかを通じて言語習得の様子を垣間見たり、英語という外国語の勉強をしたことだってある。言語学が扱う分野は周囲にあふれていて、説明を聞いてああそういうことね、となりやすい。たまにガチな言語学の話題も出て来つつ「ゆる」なので、漢字の話とか英単語の語源とかも出て来てそれも楽しい。
そして出演者二人のバランスが良い。聞き手の言語学素人が言語学のズブの素人でかつ理屈っぽく色々質問してくれるので、解説側の説明を存分に引き出してくれる。あとはどっちもうんちく大好きなので、新規概念の説明がひと段落するたびに本筋とは多少の関係がある(または関係がない)面白うんちくが挿入されるので、あまり疲れずに聴ける。
二人の学問や知に対しての姿勢も良い。あくまで素人によって作成されている「ゆる」番組だが二人ともアカデミアへのリスペクトがある。知を探求し続けることの良さが語られたりもする。単なるうんちく好きではなく二人とも読書量が半端ない。
あとは余計なエフェクトや効果音はなく、穏やかに視聴できるのもよい。

番組がブレイクして、最近ではサポーターズコミュニティができたり、新たな「ゆる◯◯学ラジオ」を生み出す企画をやっていたりと活躍が眩しい。

以上紹介でした。他にも良いコンテンツがあれば教えてほしい。

愛はキモイ…のかもしれない

岩波文庫のウェブサイト、web岩波の「たねをまく」に、詩人の最果タヒ氏の新連載「愛は全部キモイ」が掲載された。今回は第1回目で、テーマはロミオとジュリエット

最果タヒ氏は世代の近い詩人で、詩と付け合わせられたエモいイラストレーションが印象的な、エモくてキラキラふわふわした感じの詩を書く売れっ子の人、というのが私の印象(完全に単なる印象で、実際どうなのかは知らない)。ロフトとかの若者向けの店でたまに詩入りのポストカードやなんかが売られているような気がする。私はそういうのをパッと見た時にあまり刺さらなくて、しかし詩人の中ではかなり売れっ子のようなのでふーんって感じで名前だけ知っていて、真面目に詩を読んだことはない。

誰かのツイッターでいいねされたかリツイートされたかで私のツイッターのタイムラインにその連載のお知らせが出てきた。最果タヒにさほど興味はなかったけど、連載名「愛は全部キモイ」には興味がわいた。愛は全部キモイ。確かにそうかもしれない。でも詩人って愛とかを賛美する仕事なんじゃないの。

文章を読んで痺れた。

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完璧だった先輩との不完全な再会と新しい出会い

倉敷の綺麗な街並みを散々歩き回って夕方になって、会う約束をしていた後輩が時間に遅れると言うので、暇になって彼らの職場の近くを歩いてみようと思った。別々に会う約束をしている私の後輩と、私の先輩は、別々の知り合いだけど同じ病院で働いている。どんなところで働いているのだろうか。歩いていたら後輩から連絡があって、現在地を教えると「走っていきます」と言うのだが、結構なスピードで本当に走ってきたので笑ってしまった。どうやら私が歩いていた辺りに住んでいるらしい。

三連休の真ん中だったので店はどこも混んでいて、少し歩いて地酒の立ち飲み屋に入った。そうこうしているうちにその後に会う約束をしていた先輩もやってきた。先輩と後輩は職場では仕事上時々顔を合わせて話す立場らしい。本当は別々に会う予定だったけれど、三人で飲むことになった。

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一人旅と『現代思想入門』

久しぶりに一人で遠出をしている。
元々一人で出かけたりすることはしばしばあったが、恋人ができてからはめっきり無くなっていた。恋人(現配偶者)とは食べ物や雑貨などの興味の方向が一緒なので、一人で出かけるのと二人で出かけるのを比べて、多分行き先に大きな差はない。まあ私はのんびりするのが好きなので、一人だとホテルでダラダラする時間とかが増えるくらい(今も昼の一番暑い時間を避けてホテルでiPadに向き合っている)。

それでも一人旅というのは二人での旅行とは全く別の体験だと感じる。
まず、当然なのだが、旅行先や宿は自分で決めなければならない。自分がどんな時間の使い方をしたいのかに向き合う必要がある。これが二人だったら、何したい?それじゃあこの近くの宿がいいよね、と相手が提示した条件に当てはまるものを探せばなんとなく決まっていくので、私に強い目的がなければ、別に私が選ばずとも決まっていく。でも一人だったら、特に何をしたいという訳でなくても、その場所に滞在するからにはどうやって暇な時間を過ごすかを私が決めなくてはならない。もし家ならダラダラとツイッターを見ているうちに時間が過ぎたりするのだが、旅先ではダラダラするにも良さげなカフェを見つけるとか、何かかしらの能動的な選択が必要になる。
つまり一人旅というのは、時間をどのように過ごすのか能動的な選択が強いられる。これが日常とも複数人での旅行とも違っており、日常のルーティンから解放された中での自分一人の選択というのは、一人旅くらいでしか発揮する機会がない。
(というか結婚したことにより、一人の選択が一人旅の時にしかできないことになった。今回の旅がやたら新鮮味に溢れて感じられるのはそのせいなのか。結婚してトータルとしては恩恵の方が大きいと思ってはいるし、休日を二人で行動しているのは自然にそうしたいと思うからしているのではあるが、一人旅をして自由を感じることにより、結婚後の生活は少し自由が制限されているものだと思い起こされる)

また、移動中の乗り物で本を読むのも、私に取っては一人旅ならではのことだ。
普段は車通勤だし、最近電車に乗るのは配偶者と二人で出かける時が多いので、一人で公共交通機関に乗ることは少ない。私にとって読書が一番捗るのは電車の中で、電車内の読書は好きなのだが、二人でいると気が散って読書に集中できないし、これも貴重だ。

今回の旅のお供は千葉雅也の『現代思想入門』。話題の新書ということで先日買って、そのままになっていたのを持ってきた。難解とされる現代思想の、一般的な入門の前にあるその周辺の雰囲気、言わずもがな哲学界隈では共有されているような事項から丁寧に説明されている。言葉使いも難しすぎず、参考になりそうな他の書籍も紹介されており、入門編として優れていると感じた。

せっかくだから読んでいて刺さったところを紹介します。

 重要な前提は、世界は時間的であって、全ては運動のなだなかにあるということです。ものを概念的に、抽象的に、まるで永遠に存在するかのように取り扱うことはおかしいというか、リアルではありません。リアルにものを考えるというのは、全ては運動のなかに、そして変化の中にあると考えるということです。
(中略)
 ドゥールズによれば、あらゆる事物は、異なる状態に「なる」途中である。事物は、多方向の差異「化」のプロセスそのものとして存在しているのです。事物は時間的であり、だから変化していくのであり、その意味で一人の人間もエジプトのピラミッドも「出来事」なのです。(p66-67)

この、全ては途中であって、完成したら終わりというわけではないという捉えかたが、なぜだが目に留まって気になった。なんでだろう。気になるというか、そう考えると安心できる気がしてそれで惹かれているように思う。いつかは無くなってしまうことが悲しいのは、それが在ることを前提にしているからであって、全ては移ろう途中だとすればいつかは無くなるのも当然だから安心できる、ということかもしれない。

それから、本の終わり方がとても好ましく感じた。これまでに述べてきた哲学者の主張を引き合いに出しながら、希望を持てるかつ現実的な捉え方、生き方を述べていた。

 問題に取り組むというのは、ただ解釈をこねくり回しているのではなく、実際にアクションをし、ほんの少しでも世界を動かそうとすることです。そこで動いているのは何か。思考だけではありません。身体が、物事が、物質が動いているのです。個々の問題にはもちろん困難なものがあり、それはストレスを強いるわけですが、その苦しみを無限の悩みから区別する。(p213)

無限の苦しみというのは、原罪とか、私がこの世に存在する意味はなんだろうとか、そういうやつ。

メイヤスー的に言えば、この身体はいつまったく別のものになるかもわかりません。古代中国で荘子が夢に見たように蝶になるかもしれない。身体は故障するし、病むし、老いていき、いつか崩壊して別の物質と混じり合う。メイヤスーはその生成変化よりもラディカルに、突然蝶になったっておかしくないとまで考えた。(中略)そうだとして、というかだからこそ、今ここを生きるしかないのです。私がこのようであることの必然性を求め、それを正当化する物語をいくらひねり出してもキリがありません。今ここで、何をするかです。今ここで、身体=脳が、どう動くかなのです。
 身体の根本的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組むことである。(p213-214)

世界がなんであるかを考えたって捉えきれないものだからそこからは距離を取ろう。しかしそれは決して薄っぺらい態度ではなく、世俗的なことに真剣に取り組むことにもまた別の深さがあるだろう、ということらしく、現実に今を生きている生活者としては地に足をつけた主張だなと。
ここの部分だけ取り出すとなんだか物足りないような感じもするが、本の中で難解な問いや主張を紹介されてそこに身を浸した後にこの部分を読むと、とてもいい塩梅の落とし所だと思った。
本の内容は哲学者たちの主張を簡潔にかいつまんで紹介しているのではあるが、それでもこれまで触れたことのない考えを飲み込むのは骨の折れることで、私には一回読んだだけでは難しそう。旅行の後半にでもゆっくり読み返したいと思う。