長めのやつ

Twitterに対して長めの日常の記録とか思い出したこととか

生まれてきて良かった?

別に誰に急かされた訳でもないのだが、勝手に焦っている。

妊娠・出産についてである。経験してみたい気持ちはない訳じゃないけれど、積極的にしたいと思ったことはない。過去脈々となされてきていることを経験してみたいような気がするけど、それ以上に得体が知れないし恐ろしい。多分したいというよりはレールから外れたくないという気持ちであって、子供が欲しいという気持ちとは別だと思う。とはいえ私もアラサーで、何年も悩み続けているわけにもいかない。同じくらいの歳で不妊治療をしている人がいることも知っている。産むならもう悩む時間はないんじゃないか?それで勝手に焦っている。

だったらさっさと妊活しなよ、という話なのだが、怖くて一歩が踏み出せない。

まず第一に新たな生命を生み出すのが怖い。生きていればもちろんいい事もあるけれど、苦しいことも絶対にある。どんなにいい身分に生まれても、どんなに自由な境遇でも、苦しみがない人生は存在しないだろう。生まれなければ経験しなくていい苦しみを、私の一存で与えていいものなのか?

私は自分が特別不幸せだと思ったことはないし、どちらかというと、かなり恵まれた人生だと思う。もう一度人生をやり直すとしても今よりいい人生にできるかどうか自信がないくらい、この人生はなかなかうまく行っていると思う。でも生まれてよかったと心の底から思ったこともない。最近は伴侶も得て、生まれなければよかったのにと思うことも減ったけれど、それでも生まれてきてよかった、と心底思うことはない。

人生の中で「生まれて来なければよかった」と追い詰められることは誰しも一度くらいは経験しているのではないか。中学生か高校生の頃にそんなふうになって母親に「生まれなきゃよかったのに」と言ってしまったことがある。言わないほうがいいことはわかっていたが弾みで言ってしまった。何も言い返されなかったと思う。その場面の詳細はもう思い出せないのだけど、その場面を想像しては母の驚いて傷つく顔が浮かび、なんともいたたまれない気持ちになる。私がもし子供を産んでそんなこと言われたら耐えられないと思う。もちろんそれは思春期ゆえのそういう感情の爆発だっただろうけど、思春期だからアラサーの今と比べて軽いとは全く思えない。当時は当時なりに狭い世界でひどく悩んだり傷ついたりしていた。

私は心身ともに健康に生まれ、何かにひどいコンプレックスを持つことなくここまで生きてきたけれど、そうはいかない人生だってたくさんあるだろう。スクスク育った私でも生まれてきたことについて完全に肯定できないのに、そうでない場合は如何程か。ましてや自分の子が自分ほど都合よくスクスク育つという自信もない。親は命を与えることはできるけれどそれをコントロールすることはできないし無かったことにもできないし代わってあげることもできない、始まってしまったら与えられた本人が頑張るしかない。厳しすぎる。

 

第二に母体の健康の問題だ。今ではかなり減ったけれど、それでも出産前後に命の淵を彷徨うのはドラマの中だけではない。命を落とさなくても産後の体調不良とかマイナートラブルはほぼ避けられないと思う。めちゃくちゃ子供が欲しい!という訳でもないのに、今の暮らしに何も問題はないのに、自分の身を削って子供を設ける気にはならない。もし人工子宮があってそれで問題なく育つなら子供を持ってもいいかも知れない。

また、子供が生まれたらノンストップ子育て期間が10年以上続くわけで、それに耐えられる気もしない。毎日当直みたいなものだろう。体力的気力的に厳しすぎないか?私は休日に惰眠を貪る時に幸せを感じる人間なのだが、自分の母親がそんなふうに寝ているところを見たことがない。きっと子供を持ったらそんなことできないのだろう(でも父親はそうしていたから、分担すれば可能なのかも?)。職場に子育て中の人が複数人いるが、発熱とかその他諸々で休む時にペコペコ頭を下げていくあの様子、あれも耐えられる気がしない。

 

子供が居たら楽しいだろうなと思うことはある。生まれてしまえば「新たな生命を生じさせるとは」みたいな悩みはきっと吹き飛ぶくらい可愛いのだろうなとも思う。自分が好んでいる人間の面影がある小さな子供はさぞかし可愛かろう。

だから子供はいらない、と言い切るほどではないのだが、前述のような気持ちがあってどうしても積極的に欲しいとも思えない。

とはいえ産むにはタイムリミットがある。可能性としてあと10年だし、高齢出産のリスクを考えると5年以内くらいには産んでおきたい。そんな訳で勝手に焦っているのである。

 

 

どうなったら生むだろうか。

まずは国や自治体の制度の改善だろう。産んでも保育園が見つからないとかどうかしている。こちらは命をかけて生むのに、その後の生活の糧もままならないなんてどうかしている。その辺はあまり詳しくないので割愛するが、ともかく国や社会はなぜ子育て世帯に優しくないのだろうか。この少子化のペースでは国の存亡の危機だと思うのだが、なぜもっと支援しようと思わないのだろうか。私が小学生の時から少子化の話題はあったと思うのだが、肌感覚として改善している気がしない(もしかしたら制度は改善しているのかも知れないが、出産を考える若い男女にその情報が伝わっていないなら少子化対策としての意義が薄い)。まさか国家中枢に日本滅亡を企てる輩がいるのだろうか?とでも疑ってしまいたくなる。

 

生まれたら苦しみからは逃げられないについては難しい。多分私の気持ちのわだかまりの問題なのだろうが、何がどうわだかまっているのか自分でもよくわからない。配偶者ができたら良くなるかと思ったが、そうでもなさそうだ。今の人生でこれから配偶者から引き離されることがあったらひどく悲しいだろうが、もしこの人生が最初からなくて、配偶者と出会うこともないとすれば、まあそんなものかなと思う。

 

現状と「何も生じなかった」場合とを比較して(比較のしようもないが)、どちらがいいだろうか。わずかに現状の方が良い気がする。しかし私が引っかかっているのは、この「現状」はおそらく、一般的人類の中では「かなり良い方」の部類のはずなのだ。生まれてから生活の困窮を味わったことはないし(実は乳児期はそういう状況だったらしいが記憶にはない)、親とは揉めたこともあるし心を許すことはできないけれど十分に育ててもらったと思うし、まあ可愛くもないけど不細工でもないと思うし、おおむね健康だし、全員に好かれるタイプではないがそれなりに友人もいる。100点の人生ではないけれど90点以上の人生ではあるのだ。自分ながらに上手くいっていると思える人生を過ごしていながらそれが「何も生じなかった」よりもわずかに良い程度なら、もしそれより上手くいかない人生だったらどうなってしまうのか。生まれなかった方が良かったと思ってしまうのではないか。

 

これはあくまで自分の話で、自分より人生上手くいっていない誰かについて言及するつもりはない。でも生まれてくる自分の子供についての話で私の物差しを持ち出してしまうのは、やはり子供を同一視しているからなのだろうか。

私が私の人生についての評価を他人に適応しないのと同様に、私の子供に対しても適応すべきではないのかも知れない。つまり、生まれてきて良かったかどうかは生まれてきた子が自分で考えることであり、わたしたちが評価すべきではないということか。そうなのかも知れない。

そうなると生まれてきて良かったかどうかは本人しか判断し得ないのだから、私が案じてもどうしようもないのかも知れない。

 

それでもやはりこのことを考えると気が遠くなる:

生まれてしまったからにはいつかは死ななくてはいけない。

私も子供もいつか死ぬのに、こんなことをしていく意味はなんなのだろうか。一体何が残るのだろうか。