長めのやつ

Twitterに対して長めの日常の記録とか思い出したこととか

一人旅と『現代思想入門』

久しぶりに一人で遠出をしている。
元々一人で出かけたりすることはしばしばあったが、恋人ができてからはめっきり無くなっていた。恋人(現配偶者)とは食べ物や雑貨などの興味の方向が一緒なので、一人で出かけるのと二人で出かけるのを比べて、多分行き先に大きな差はない。まあ私はのんびりするのが好きなので、一人だとホテルでダラダラする時間とかが増えるくらい(今も昼の一番暑い時間を避けてホテルでiPadに向き合っている)。

それでも一人旅というのは二人での旅行とは全く別の体験だと感じる。
まず、当然なのだが、旅行先や宿は自分で決めなければならない。自分がどんな時間の使い方をしたいのかに向き合う必要がある。これが二人だったら、何したい?それじゃあこの近くの宿がいいよね、と相手が提示した条件に当てはまるものを探せばなんとなく決まっていくので、私に強い目的がなければ、別に私が選ばずとも決まっていく。でも一人だったら、特に何をしたいという訳でなくても、その場所に滞在するからにはどうやって暇な時間を過ごすかを私が決めなくてはならない。もし家ならダラダラとツイッターを見ているうちに時間が過ぎたりするのだが、旅先ではダラダラするにも良さげなカフェを見つけるとか、何かかしらの能動的な選択が必要になる。
つまり一人旅というのは、時間をどのように過ごすのか能動的な選択が強いられる。これが日常とも複数人での旅行とも違っており、日常のルーティンから解放された中での自分一人の選択というのは、一人旅くらいでしか発揮する機会がない。
(というか結婚したことにより、一人の選択が一人旅の時にしかできないことになった。今回の旅がやたら新鮮味に溢れて感じられるのはそのせいなのか。結婚してトータルとしては恩恵の方が大きいと思ってはいるし、休日を二人で行動しているのは自然にそうしたいと思うからしているのではあるが、一人旅をして自由を感じることにより、結婚後の生活は少し自由が制限されているものだと思い起こされる)

また、移動中の乗り物で本を読むのも、私に取っては一人旅ならではのことだ。
普段は車通勤だし、最近電車に乗るのは配偶者と二人で出かける時が多いので、一人で公共交通機関に乗ることは少ない。私にとって読書が一番捗るのは電車の中で、電車内の読書は好きなのだが、二人でいると気が散って読書に集中できないし、これも貴重だ。

今回の旅のお供は千葉雅也の『現代思想入門』。話題の新書ということで先日買って、そのままになっていたのを持ってきた。難解とされる現代思想の、一般的な入門の前にあるその周辺の雰囲気、言わずもがな哲学界隈では共有されているような事項から丁寧に説明されている。言葉使いも難しすぎず、参考になりそうな他の書籍も紹介されており、入門編として優れていると感じた。

せっかくだから読んでいて刺さったところを紹介します。

 重要な前提は、世界は時間的であって、全ては運動のなだなかにあるということです。ものを概念的に、抽象的に、まるで永遠に存在するかのように取り扱うことはおかしいというか、リアルではありません。リアルにものを考えるというのは、全ては運動のなかに、そして変化の中にあると考えるということです。
(中略)
 ドゥールズによれば、あらゆる事物は、異なる状態に「なる」途中である。事物は、多方向の差異「化」のプロセスそのものとして存在しているのです。事物は時間的であり、だから変化していくのであり、その意味で一人の人間もエジプトのピラミッドも「出来事」なのです。(p66-67)

この、全ては途中であって、完成したら終わりというわけではないという捉えかたが、なぜだが目に留まって気になった。なんでだろう。気になるというか、そう考えると安心できる気がしてそれで惹かれているように思う。いつかは無くなってしまうことが悲しいのは、それが在ることを前提にしているからであって、全ては移ろう途中だとすればいつかは無くなるのも当然だから安心できる、ということかもしれない。

それから、本の終わり方がとても好ましく感じた。これまでに述べてきた哲学者の主張を引き合いに出しながら、希望を持てるかつ現実的な捉え方、生き方を述べていた。

 問題に取り組むというのは、ただ解釈をこねくり回しているのではなく、実際にアクションをし、ほんの少しでも世界を動かそうとすることです。そこで動いているのは何か。思考だけではありません。身体が、物事が、物質が動いているのです。個々の問題にはもちろん困難なものがあり、それはストレスを強いるわけですが、その苦しみを無限の悩みから区別する。(p213)

無限の苦しみというのは、原罪とか、私がこの世に存在する意味はなんだろうとか、そういうやつ。

メイヤスー的に言えば、この身体はいつまったく別のものになるかもわかりません。古代中国で荘子が夢に見たように蝶になるかもしれない。身体は故障するし、病むし、老いていき、いつか崩壊して別の物質と混じり合う。メイヤスーはその生成変化よりもラディカルに、突然蝶になったっておかしくないとまで考えた。(中略)そうだとして、というかだからこそ、今ここを生きるしかないのです。私がこのようであることの必然性を求め、それを正当化する物語をいくらひねり出してもキリがありません。今ここで、何をするかです。今ここで、身体=脳が、どう動くかなのです。
 身体の根本的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組むことである。(p213-214)

世界がなんであるかを考えたって捉えきれないものだからそこからは距離を取ろう。しかしそれは決して薄っぺらい態度ではなく、世俗的なことに真剣に取り組むことにもまた別の深さがあるだろう、ということらしく、現実に今を生きている生活者としては地に足をつけた主張だなと。
ここの部分だけ取り出すとなんだか物足りないような感じもするが、本の中で難解な問いや主張を紹介されてそこに身を浸した後にこの部分を読むと、とてもいい塩梅の落とし所だと思った。
本の内容は哲学者たちの主張を簡潔にかいつまんで紹介しているのではあるが、それでもこれまで触れたことのない考えを飲み込むのは骨の折れることで、私には一回読んだだけでは難しそう。旅行の後半にでもゆっくり読み返したいと思う。